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坊さんって [文化・宗教]

  
平成24年9月8日(土)月歴7月22日 2011年Blog
  
母といつものように夕飯をしていると、父の法事の話になり
それまでにお墓の香炉を直したいと言うのだ。

うちのお墓の香炉は大谷石で出来てたので、痛んできて
屋根の部分がぼろぼろになってきていた。

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そこで、食事をしながらiPadでAmazon検索してみた。

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白御影石香炉・香皿付(お墓用)(Amazon)

すごい安いよ!と僕が言うと
母は「大丈夫かね?」と心配している。

何が心配かと言うと、坊さんに気兼ねしてるのだ。まったく!
なぜか?
うちの菩提寺の坊さんは、それはやり手で有名で、実業家?
と思えるほど、お寺をどんどん拡張して、金儲けに走っている。

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お寺が大きなり綺麗になるのはいいかも知れないけれど…

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これは本堂脇に出来た新しい墓地だ。納骨堂やらペット墓
それは立派だ。停まってるベンツは息子の坊さんのかな…

くそ坊主!
そう言いたくなる。(すいません(笑))

この寺は真言宗で弘法大師さまも好きだし(日記 2270)
僕は仏教そのものも好きでだし、座禅も好きだ。

しかし!この寺の坊主はどうもダメだ。
そして母とくれば、その坊さんに気をつかって心配してる。

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仕方ない、僕は隠れるように香炉をそっと墓に置いて
線香をあげてきた。
先祖さまはこのお寺で安らかにしているのだろうか?

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そういえば、選定してるサツキはずいぶん綺麗になってた。
人類消滅後の地球(Blog) 自然ってすごいな~


日本史を紐解く ― 150年の歴史が今の日本人を作った― [文化・宗教]

  
平成24年8月29日(水)月歴7月12日 2011年Blog
  
藤原正彦「国家の品格」「日本人の誇り」に宗教は書かれていない。

日本人の歴史観はその元となる宗教観を抜きにしては語れないと
思うのだが、藤原は全くというほど踏み込んでは書いてはいない。

新渡戸稲造の『武士道』が数ある武士道解釈の中で、藤原が一番
好きだと書いているのだが(国家の品格p121)、その武士道解釈に
「キリスト教的な考え方が入っていることは確かです」と書くだけで
それ以上の探求をしていないのが、どうも腑に落ちなかったのです。

長松清潤「仏教徒 坂本龍馬」は幕末から明治にかけ、坂本龍馬の
歴史に埋もれた「閑愁録」で唱える仏教を国の根本とする考え方を
示しながら、仏教を今一度見直そうとしている。

その「仏教徒 坂本龍馬」では仏教寄りの考え方で書かれてるため
どうしても、例えば岩倉具視などは廃仏毀釈を実行した人物として
読み方としては悪者のようなのだ。(そこまでは書いていないが)

となると、岩倉具視とはどんな人物だったのだろうと調べながら
また本を読み、そしてまた日本史を紐解きながら読み進めている。

すると面白い事に気づいた。
例えば、子供が生まれるとお宮参りに神社へ行くがどうしてだろう?
正月の初詣も神社だ。
これも明治政府の国家神道の政策からなのだが、そんな事は以前から
分かっていたが、それでも僕らの生活は明治を知らないと分からない。

ペリー横浜上陸.jpg

そう思い日本史をもう一度見直していると、日本の歴史はペリー来航の
1853年から始まったのではないか?思えてくるのだ。

ところが偶然にも、藤原正彦はペリー来航の1853年から大戦に負けた
講和条約締結の1952年を百年戦争としています。(日本人の誇りp217)

どちらにせよ、この150年の歴史こそが僕らの歴史、文化、生活全てに
影響を与え、僕らの歴史観、宗教観を形作ってる事に気がついたのだ。

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「夜明け前」は米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末
明治時代を舞台に、主人公青山半蔵を描き出した島崎藤村の大作だ。

「夜明け前」。あの時代はどういう時代だったのだろうか。夜明け前の
真っ黒から赤紫に染まる空を見ながら思ったのでした。(今朝5時ころ)


挨拶出来ない日本人 [文化・宗教]

 
平成24年1月15日(日)月歴12月22日 2011年日記
 
今年の目標(Blog)に書いた「茶道を体験する。」なのですが、
一口に言っても表千家、裏千家とどう習って良いか分からない。

どうも調べてみるとテニススクールに入るのとは大違いなのだ。
そこでまずDVD付きの入門書を取り寄せてみた。

DVDで覚える茶の湯―お茶のお稽古入門書

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入門書は数々あるがDVD本はなぜか裏千家の北見宗幸氏、この
桜井宗幸の2氏しか出してらず、表千家のDVD付き入門書がない。

そこで表千家と表千家の違いをじっくり調べてみた。
表千家
裏千家
表千家と裏千家の違い

いろいろ違いがあるようなのだが1)基本は同じ、2)現在では
生徒数が裏千家が多い、という事でこの入門書を取り寄せた。

そもそもお茶を習おうと思ったのは「今年の目標」でも書いたが
大震災から仏教を学び、禅寺で座禅をするようになったからだ。

禅の世界を知ると自ずともっと日本の文化、そこにあるものを
学びたくなり、禅と一体をなすお茶を体験したくなったのだ。

そして去年から始めた俳句も、禅、お茶と一体をなすものだ。
そういう日本の文化をもっと知り、深めたいと思ったのだ。

さてお茶の入門書を取り寄せてみると、愕然としてしまった。
そこには僕らが知らなくてはならない、基本的な作法がある。

挨拶の仕方、襖の開け閉め、歩き方、立ち振る舞い、どれも
僕ら日本人に欠かせないものだ。僕らは誰かから学んだか?

そういう思いにかられる。聞くとお茶を習いに行くとほとんどが
女性で男性はまれだ。もちろんトビーさんは亭主をされるほど
お茶をされているし、Yさん、コナちゃんもお茶にも詳しい。

しかし、お茶の作法に詳しい男性がどれほどいるだろうか?
なぜ僕らは日本人の基本と言える作法を学ばなかったのか?

お茶の入門書を読み、そう思い愕然としてしまったのです。

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さて、今日もこれから「龍雲寺 洗心坐禅会」に行ってきます。
しかし、最近ずっと思っている事がありました。

それは、これだけ禅寺に通っている方でも挨拶が出来ないのです。
龍雲寺 禅に学ぶ
「禅堂の入口に入ったら沈黙。合掌一礼」ここに書いてあるように
禅堂に入る時は必ず合掌一礼するのが作法なのですが、どうも
ちゃんと挨拶する人が多くないのです。常連とおぼしき人まで。

観察すると、一礼する事はするのですが、中途半端な人が多い。
半身で終わってしまうのです。もちろん全くしない方も多いのです。
(観察は、座禅の始まる前や座禅と座禅の間の休憩の時です。笑)

キングさんともこの事を話あったのですが、外国の方はちょっと違う。
エレベーターに乗り合わせると全く知らない方でもHelloと挨拶する。

聞くところによると、アメリカのような他民族国家では、挨拶して
「私は敵ではありませんよ」と相手に知らせるためだと言うのだ。

しかし、いま日本では他人とすれ違って挨拶する習慣がなくなった。
もちろん小学校の登校風景で「おはようございます。」とやっている。

しかし、大人たちはエレベーターの中でちゃんと挨拶するだろうか?
そして、お寺さんで法事で、ちゃんと挨拶や作法が出来るだろうか?

漢字さえも書けなくなった日本人。挨拶が出来なくなった日本人。
先ずは大人の僕らがちゃんと学ばなければならいと思ったのです。

いまの気温2℃です。外気と同じ本堂で瞑想してまいります。(笑)


仏教のおおらかさ [文化・宗教]

 
平成23年12月25日(日)月歴12月1日 2010年日記
 
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いま僕の傍らには「私訳 歎異抄(五木 寛之)」がある。

歎異抄(たんにしょう)は、鎌倉時代に親鸞の弟子唯円の著とされる。
親鸞滅後に浄土真宗で湧き上がった異議異端を嘆いたものである。

歎異抄は梅原猛を初め多くの方の著作があるが、僕は「親鸞」以来
五木寛之をずっと読んできた事もあり、この本を選んだ。

歎異抄は各項目と序章、後述の20項目からなるが、各項目はごく短い。
その「私訳 歎異抄」は五木寛之が訳した20項目が前半にあり、後半に
歎異抄の原典、東大名誉教授の五味文彦氏の解説からなっている。

僕はこれを毎日読むわけではない。しかし傍らにつねに置いてある。
すると心が穏やかになる。気持ちがきつい時は特にそうだ。

僕は仏教とはなんとありがたい教えなのだろうかと思う。
そう思おうと、仏教は宗教とは違うような気がするのだ。

儒教もそうなのだが、儒教も宗教としての一面があった。
しかし、やはり儒教は「教え」だ。
人生における「教え」だ。

それは仏教も同じだ。
釈迦は道理により正しい習慣を身につけ、規律正し生活をすれば
誰でもがブッダになれると説いただけだ。

だからこそ、他の一神教のように他を排他することなど必要ない。
だからこそ、仏教と神道は一緒にあり、八百万の神とも同居できる。
だからこそ、仏教国の日本では、クリスマスさえも一緒に祝えるのだ。

うちの菩提寺は真言宗のお寺だから、親鸞の浄土真宗は他宗派だ。
親鸞を愛読し、歎異抄を傍らに置くなど、他の宗教ならどうなのだろう。

キリスト教なら、カトリック信者はプロテスタントの教義は読まないだろ。
イスラム教なら、シーア派信者はスンニー派とは相容れないだろう。

そして僕は毎週のように臨済宗の禅寺に行って瞑想にひたる。
なんとも素晴らしい!この懐の深さ。なんとおおらかなのだろう。

さて、今日もこれから「龍雲寺 洗心坐禅会」に行ってまいります。
少し遅れたが、それでも受け入れてくれる。これもありがたい!

いま気温は3℃。本堂は外とまったく同じ気温だ。行ってきます!

もっと日本を知ろう! [文化・宗教]

 
平成23年11月6日(日) 月歴10月11日 2010年日記
 
えりさんと宮川のまるよし食堂でいろいろな話をしている中で、
「能」の話を伺った。最近ご覧になる事が多く、勉強されている。

さっそく「10/6の朝から演能会があります。ご覧になりませんか」
とお誘いを受けたのだが、今日は諸事情があって断念した。

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(えりさんがご覧になるという「安宅(あたか)」の一場面)

能は以前から興味を持っていた。あの独特の世界。あれこそ
日本の文化だと思ったいた。近いうちに必ず見に行きます!

ところでいま、Kozoさんとえりさんに小説「親鸞」を紹介して、
すでに二人はお読みになった。Eishiroさんも読むと思う。(笑)

親鸞の生きた時代も、平安末期から鎌倉時代にかけての物語だ。
平安末期のあの末法思想は今の日本の状況によく似ていると思う。

だから余計に、親鸞の世界が身近に感じられるのかも知れない。

そして「能」の世界も平安時代より盛んになっている。
鎌倉から戦国武将、そして豊臣、徳川と能を保護していった。

映画やテレビで織田信長の舞う能は、カッコいい!そう思った。

ところで、最近のニュースで水戸光圀が水戸に招いた儒教学者の
朱舜水(しゅしゅんすい)の子孫が舜水ゆかりの地を訪ねたという。
儒教も日本の文化を学ぶ上で欠かせないものだ。これも学びたい。

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仏教、儒教、禅、能など、日本人として学びたい事は山ほどある。
さて、今日もこれから「龍雲寺 洗心坐禅会」に行ってまいります。

「池上本門寺 お会式」心は晴れない [文化・宗教]

   
2011年10月13日(木)月歴9月17日 2010年日記
  
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池上本門寺は日蓮宗十四寺院のひとつとされ、七大本山のひとつですが
10月13日の命日を中心に全国各地でお会式(おえしき)が営まれます。

その中でも日蓮聖人が入滅された池上本門寺がもっとも盛大に行われます。
池上本門寺 お会式」久しぶりに(日記382)にお会式に行ってみました。
またいつものようにPicasaに写真を貼りました。ご覧頂けると嬉しいです。

それにしても、毎日の放射能汚染の話に心が晴れません。
世田谷区で1時間あたりの放射線量2.7マイクロシーベルト
繰り返しますが、僕らはいいです。
しかし小さい子供をかかえた家族はどんな想いでしょうか。

そしてこのニュースには、少しは安心しました。
福島米:農家は安心の一方、不安も…安全宣言

こんな時だからこそ、気持ちだけは心安らかにすごしたいです。

内的世界と外的世界 [文化・宗教]

   
2011年10月10日(月)月歴9月14日 2010年日記
  
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龍雲寺 洗心坐禅会」座禅が本当に楽しみになってまいりました。
まさに心が静かになるのです。

座禅は難しくはありません。「いろいろな考えが浮かんで無になれない」と
よく聞きますが、僕にはそんなに難しく考える事はないように思えるのです。

大陽寺(Blog)で初めて座禅をした時も、僕は宇宙を感じる事が出来ました。
ゴーと地球の自転とともに自分が猛烈なスピードで移動するのを感じたのです。

昨日は座禅のまま、胡座の姿勢で宙に舞い上がるイメージを持ちました。
自分が胡座の姿勢のまま反転して宙返りをしていました。

もちろん、ほんの一瞬。もしかしたら、それは夢だったのかとも思います。
座禅では目は閉じません。半眼にして1m先の視界があるようにします。

しかし一瞬だけ、その意識はなく、目が閉じてる時があるかも知れません。
この一瞬さっと流れるイメージがあるのです。それが僕には宇宙なのです。

「悟りを開く」とか「深い瞑想に入る」などと聞きます。しかしそれは難しいと
僕は思うのです。どんなに熟練された方でも、走馬燈のように思いが回る。
そういうものだと思うのです。
座禅は、僕は難しく考える事はないと思うのです。
もっと素直に簡単に考えると、本当に静かな時がもたらされると思うのです。

僕は二十歳でアフガンから戻って、書いたレポートに「内的世界と外的世界」
そういう表現をしてたのですが、座禅はまさに内的世界と外的世界なのです。
その一部を書きます。(Afghan日記

「 旅行を終えて 」
 (前略)
 旅行にもそれぞれのスタイルがあるのと同様に、人にはそれぞれの生き方がある。それは彼が感じようが感じまいが、その人間はその生き方をもってして、生きているのである。たとえば、人が何かを決定する時に、その人はいままでの自分の経験から学んだもの又、それから生じた社会的要因の分析から、1つの決定を下すのであるが、その元となる経験及び知識が、統合され、集約されたもの、又はそれらが雑多なままで一つの“かたち”を成した時に、それらはその個人の人生観となる世界観として生きて来るのである。そして、その日々の生活はそういった人生観等の
内的世界から、言語等の手段を用いて、外的世界の現象に訴えかける事によって成り立っており、つまり現実の生活とは外的世界の現象の積み重ねにすぎないのである。そしてそれの現象面を人々がいかに対処するかがその人を“位置づける”唯一のものなのである。“全てに対する位置”こそが自分の書かんとする始めであり、全てであるが、しかしこのことが全くの“誤魔化しでしかない”(この事は重大な事だが)こともふまえ、それは逆に“全てに対する位置”が現象の世界をも規定(あるいは決定)するものであり、人間はその世界を逃避することが出来ない(内的世界と外的世界、二者が互いに存在して初めてその人間は生きているのである。)が為に、それを度外視して、その世界に限定して生きなければならないという宿命を持っているからである。
 (後略)


あの頃は生意気な盛りで、なんとも抽象的な事を書いたと思っていましたが
いま思うと「内的世界、外的世界」。これこそが座禅の世界だと思うのです。

なんとも不思議です。座禅しながら「内的世界、外的世界」を考えるのです。
そうです。座禅中もいろいろな事を考えるのです。それでいいと思うのです。
いろいろに想いをはせながら「内的世界、外的世界」を感じるのです。

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この写真は、アフガニスタンのキャンプ地での写真です。(Afghan日記06
僕の好きな写真の1枚です。あの時、まさに瞑想中でした。
座禅中にふと、あの頃を思い出したりするのです。

座禅はそのように、いろいろな想いをめぐらして、「内的世界、外的世界」を感じ
静かな心を得られればいいのと思うのです。難しい事はなにもないと思うのです。

日本にはこんなに素晴らしい体験が出来る禅寺が、数多く身近にあるのです。
ぜひ、多くの方に座禅を体感して頂き、静かな時間を持って欲しいと思うのです。

日本をもっと知ろう! [文化・宗教]

   
2011年10月6日(木)月歴9月10日 2010年日記
  
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「龍雲寺」洗心坐禅会(So-net)に通うようになり、もっと禅宗や他の宗派を
知りたいと本や雑誌を読み、道元や栄西、白隠などの歴史を読み、茶道や
お庭の勉強をしています。いま、禅に関わる事を知るのが、実に新鮮です。

諸行無常(あらゆる存在は一定ではない)、諸法無我(全てのものは集合体で
集合体はいつかばらばらになる)、というブッダの教えは脈々といまに至り、
「悪いことすると閻魔様に舌を抜かれる」など子供の頃からの信仰ともつかぬ
教えが僕らの奥底にあり、いまでもそれは僕らの生活に息づいている。

しかし、それでも「あなたの宗教はなんですか?」の問いに「仏教徒です」と
答えられる日本人がどれほどいるのだろう?(菩提寺を頂いている人でも)

茶道を嗜み、俳句を詠い、庭を眺めても、それらすべて禅の教えからくると
知らずに生きているのだと思う。(もちろん知っている人は知っている。)

日曜日も禅寺に行き座禅をしてくるが、もっともっと日本を知りたいと思う。
いまから日曜日が楽しみでならない。

写真は昨日、手巻き鮨に菊を頂いた。日本人に生まれて良かったと思った。

人生は夢 [文化・宗教]

  
2011年10月1日(土)月歴9月5日 2010年日記
  
「夢中説夢」(むちゅうせつむ)、という禅の言葉がある。
道元禅師はこう述べたという。(『正法眼蔵』「夢中説夢」)

「夢にあらざれば説夢なし、説夢にあらざれば夢中なし。
 説夢にあらざれば諸仏なし、夢中にあらざれば諸仏出世し転妙法輪なし」

どういう事かというと、この夢のような世界のほかに現実はなく、そして
この夢のような現実の中に諸仏が存在し、すばらしい教えを説いている。

人生は「夢中説夢」のようなもので、その夢のような現実こそ人生であり
それ以外に生きる道を求めても、生きる道はない。という事らしい。(笑)

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長々と書いたが、映画「エンディングストーリー」という今日10月1日に
公開される映画の内容を読んで、ふとそんな事を思ったのだ。

映画はこの作品の監督のお父さんの話。父親ががんに侵され、父親の最期を
迎えるまでを追ったドキュメンタリーだ。

父親は1940年生まれ。慶応大学を卒業して丸の内の化学メーカーの営業を
一筋に勤め上げ、退職しこれから悠々自適のリタイヤ生活を送ろうとする矢先
胃ガンが発見され、告知から半年後に亡くなったのだ。その話だ。
主人公は告知後に人生の「終活」を始める。それが「エンディングノート」だ。

さて、僕ももういつ死んでもいい覚悟で生きてはいるが、果たして余命半年の
告知を受けたらどうなるだろうかと考えてみたのだ。
そして、30代、40代、50代。全ての年代に余命半年の告知が受けたら、どう
自分の人生の「エンディングノート」が書けるだろうか?と考えたのだ。

もちろん僕は段取り屋で、仕切り屋なので、「エンディングノート」は書ける。
というか喜々として書くだろう。
もう会社の重い荷物を背負わなくていい。もう後は後継に全て任せるだけなのだ。
こんなに気持ちが安らぐ事はない。

まずは一ヶ月で全ての仕事の段取りをすませ、遺産相続など遺書を書き、後々が
困らないように全てを一ヶ月で片付ける。そのスピードは任せろ!(笑)

余命半年と言っても、一ヶ月はその体力はあるだろう。そして1ヶ月で片付けたら
いよいよ放浪だ!どのくらい動けるか分からないが、できるだけ回る。回るぞ!
なんと楽しいのだろう。
後を憂うことなく、生きれるほど、素晴らしい事はないではないか!

映画「エンディングノート」はもちろん見てない。たぶん劇場も行かないだろう。
でも、そんな事を考えさせてくれた映画なので、WOWOWで見てみよう。(笑)

「人生は夢」本当にそう思う。だからこそ、精一杯生きるのだ。
明日はまた座禅だ。座禅は無ではなく夢なのだと思う。「人生は夢」なのだ!

龍雲寺 洗心坐禅会 [文化・宗教]

  
平成23年9月26日(月)月歴8月29日 2010年日記
  
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龍雲寺 洗心坐禅会に行ってまいりました。
(写真は龍雲寺のホームページよりお借りしました。)

まず、昨日のBlogを書き上げたのは[2011-09-25 06:12] 6時12分!
そこから身支度して、車を走らせ龍雲寺に向かいました。

わが家の大田区南馬込から世田谷野沢まで約8km、環七を1本です。
日曜の早朝の環七はもちろんガラガラ。車の流れと一緒に飛ばました。

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環七の国道246号線玉川通り手前に「龍雲寺」という交差点があり、
いつも通っていたので、名前は知ってましたが、入るのは初めてです。

よく分からず車を境内に入れると、それらしき人がやって来ました。
「座禅に初めて来ました」と聞くと「私も2回目です」と一緒に本堂へ。

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時計を見ると6時半ぎりぎり。セーフ!
その2回目という人の後につき本堂へ。写真の聖典という立派な冊子と
般若心経などを解説したコピーを黙って取り、好きな場所に座りました。

すでに何人もの方が座禅されています。静かに座り僕も座禅に入ります。
ところが、後から10分おきくらいに数名の方が座禅にやってくるのです。
(なんだ。遅刻もありなんだ。)

そればかりが、本堂のすぐ脇に社が祀られているのですが、参拝者が
パンパンと柏手を打つ音さえ聞こえてくるのです。(がーん)

大陽寺とは大違いです。大陽寺は本当に鳥のさえずりと遠くの渓流の
かすかな音しか聞こえません。座禅する隣りの人の息さえも聞こえない。

しかし、龍雲寺では途中で入っる方の足音、柏手の音、環七の車の音。
自分が精神統一出来てないせいだと思うのですが、聞こえてくるのです。

いや。僕は座禅に「悟り」だとか「精神統一」だとか「自らの心を洗い清め、
悩みや苦しみ問いかける(龍雲寺HPより)」などを求めてはいません。

大陽寺で感じた「時空を彷徨う贅沢な時間」。僕は座禅を「時間遊び」と
勝手に思い、自分の心を解き放ちたいと、いま座禅に魅了されてるのです。

ですから、座禅中にいろいろな音が聞こえても、それはそれでいいのですが
しかし、大陽寺で感じた「宇宙にいる自分」をついには感じられませんでした。

そして、座禅の時間は6時30分から7時20分までのようでした。つまり50分。
僕にはまだ長いので、途中30分くらいして自分で席を外し足を伸ばしました。

龍雲寺の坐禅会はこのように、時間もある程度自由に参加が出来ますし、
なによりも日曜日の早朝に座禅が出来るというのが素晴らしいです。

来週も行こうと思います。今回と変わった事がありましたら、書きますね。

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